音楽

【実体験】プロドラマーになる夢をあきらめた過程をまとめてみました

【実体験】プロドラマーになる夢をあきらめた過程をまとめてみました

ライブが近づいてきたので、少しプロドラマーになるという夢をあきらめた時のことを書いてみようかなと。

 

いつぶりだろうか、久しぶりにライブに向けて真面目に練習したような気がします。

特に、ベースの人との個人練習を何回もするなんて、すごく久しぶり。

 

もちろん、プロドラマーを目指していたときと比較して圧倒的な練習量は足りない。

でも、プロドラマーになるという夢をあきらめてからの10年ちょっとの期間では1番練習しているかな。

 

ちょくちょく今でもライブに誘われますし、面白そうなライブだったら演奏したりするけど、基本的に少し練習して本番に臨むという感じ。

 

だから、時間をメンバーで調整して何回も練習をするなんて、すごく懐かしい経験でした。

 

またこの前も、ライブのリハーサルのリハーサルがライブハウスであって、すごく懐かしい感覚がよみがえってきましたね。

だから、最後まで残ってしまいました。

 

普段は飲み会にも参加しないし、自分の時間を1番に考えているのですぐに帰るのにもかかわらず、、、ですね。

 

また、そのリハーサルのリハーサルにドラマーの人が僕を含め4人いたんですけどね、久しぶりドラムのことについて話ができてすごく楽しかったですね。

 

パラディドルとかアクセントの位置とかフラムとか、、、。

ルーディメンツを練習していたときの記憶がよみがえってきて、本当にわくわくしました。

 

では、そんな僕がプロドラマーの夢をあきらめたタイミングの話を。

 

13歳からドラムを始め21歳で単身渡米した僕ですが、プロドラマーに成ることができませんでした。

プロドラマーの定義は『演奏した報酬で生活ができる』というものとしますね。

 

個人的には『せーの』でプロドラマーになるという夢をあきらめたわけではありません。

徐々にプロドラマーになるという気持ちが僕から離れていったという感覚ですね。

 

具体的に話しますね。

『夢をあきらめる』と書くと、『せーの』で『もうこれからドラムの演奏をしない!もう今後プロドラマーを目指さない』と考える人も多いかと思います。

 

ですが、僕の場合はそうじゃなかったんですね。

色んな出来事が重なって、徐々にプロドラマーになるという気持ちがなくなっていきました。

 

当時オーディションで合格して参加したアメリカ人のバンド。

このバンドでハリウッド等でライブをしてたんですね。

 

ここまではまあまあ順調。

いろんなオープニングアクトにも呼ばれるようになっていったし、いい話も少し聞こえてきたときでもありました。

でも、あるときから少しメンバーと険悪な関係に。

 

そのあるときというのは、バンドの練習場所を変更したとき。

それまでは、ガレージバンドという言葉があるように、ギターのマーティーのガレージで練習していたんですね。

 

でも、はっきりした時期は覚えていませんが、急に練習ができないということになってしまって、メンバーで色々スタジオを探すようになったんですね。

 

そして、僕が見つけたんですが、ダウンタウンになる音楽スタジオだったわけです。

 

日本人の感覚でスタジオと書くと『1時間いくら?』とか『アンプは何が置いてあるの?』とか『ドラムセットはどこのメーカー?』なんて考えたりしますよね。

 

でも、アメリカのスタジオは違ったんですね。

どう違ったかというと、ただの広い空間があったわけなんです。

 

つまり、『機材は全て自分たちの機材を持ち込む』ということなんですね。

 

僕だったらドラムセットを購入して持っていく。

ギターリストだったら、自分のギターやアンプを持ち込むというような感じ。

 

そして、ライブも自分たちの機材で演奏します。

だから、僕の場合はドラムセットを持ってライブハウスに行き、本番前に組み立ててステージにセットし、PAさんがマイクをセットして本番という感じですね。

 

だから、ドラムセットによって演奏しにくいということはなく、常に自分のセットで演奏していました。

この方法は今まで日本では経験したことがないやり方だったので、かなり衝撃を受けました。

 

逆に言うと、『ドラマーなのに自分のドラムセットを持っていない=ドラマーではない』という認識がアメリカにはありましたね。

 

日本でドラマーの持ち物でいうと、

  • ペダル
  • スネア
  • シンバル
  • シンバルスタンド

ぐらいが多いんじゃないですかね。

 

でも、アメリカではドラムセットなんです。

 

ちょっと話がそれましたね。

メンバーと険悪になっていったときの話をします。

 

ここからは僕の感覚と主観が入るので本当かどうかわかりません。

僕とギターの人とは基本的に仲がよく色々バンドの方向性を話をしていました。

 

ベースも仲がいいですが、そこまで演奏レベルとしては上手くない。

ボーカルは音痴でこれは致命的。

 

だから、ギターの人と『いつボーカルをクビにするか』『クビではなく音痴を直してもらう方法は?』などよく話をしていたんですね。

 

また、少し話がそれますが、当時の僕には『情』がありました。

ですが、もしあなたが本気でプロを目指しているのであれば『情』はさっさと捨てるべきですね。

 

だから、『ボーカルをさっさとクビにするべきだったな』と、今振り返って思います。

 

ボーカルの人は結婚もしているし子供もいる。

子供はライブを毎回見に来ているし、子供からすると『かっこいいお父さん』に見えていたと思います。

 

ですが、バンドでは音痴。

致命的なんですね。

でも、家族のことを考えて僕は『ボーカルの音痴を直し良くしていく』という方向で進むことを決めました。

 

だから、それ以降ボーカルには強くあたるようになっていったんですね。

もちろん、仲はいいです。

 

サンクスギビングの日も家族に招待され、彼の家で一緒にパーティーをしましたし、一緒に何回も飲みに行きましたね。

馬鹿話も色んな話を彼とはしました。

 

ですが、バンドは別。

だから、僕が嫌われ役となって、どんどん強くあたるようになっていきました。

 

で、どうしてバンドが険悪な感じになっていったかというと、先程の練習場所を変更してからですね。

 

まず、ボーカルは免許を持っていないんですね。

理由は飲酒運転で一発免取りになったから。

 

だから、はじめに彼の家に迎えに行きギターのマーティーのガレージで練習をしていました。

その役は僕が多かったように思いますね。

他の人は仕事していたいので。

 

でも、今度はダウンタウンのスタジオで練習することになったため、その役がマーティーに変わったんですね。

マーティーの家からスタジオまでは片道約30分。

 

つまり、マーティーはボーカルの人と一緒に行きも帰りも2人でいるようになりました。

合計約1時間ですね。

 

そこから、マーティーが変わっていったんですね。

何の話があったのかはわかりませんが、連絡しても練習日が決まらなかったり、ライブの予定もなくなっていきました。

 

『あきらかに何かおかしい』と感じたときに、ベースから連絡がありました。

 

その内容は『もうKen(僕のこと)とは一緒に練習ができない。僕達3人はそのまま活動をするからこれからは1人で頑張ってくれ』というものでした。

 

こんな感じでバンドを追い出されました。

 

『バンドってあっけなく終わるんだな』って思ったのと同時に、その時はまだプロドラマーになるという気持ちは消えていませんでした。

 

なぜなら、日本でもバンドの解散は経験しているからですね。

また、メンバーを集めたらいいとさえ考えていたんですね。

 

そして、『以前はドラマーが抜けたバンドに僕がオーディションで入った。今度は僕がオーディションをしてやろう』と考えるようになり、ギターのオーディションを始めました。

 

今度は僕がメンバーを選ぶ番ですね。

なかなかいい人が見つかりません。

オーディションを経て入ってもあわなくて喧嘩したりすることもありました。

 

そのような過程を経て、最終的にはギターとベースは見つかりました。

まだ、プロドラマーになるという気持ちはこのときはありました。

 

でも、結局そのバンドはオリジナル曲が完成しなかったのと、メンバーの方向性が違ったため解散となってしまいました。

そのときぐらいから、『少し現実を見たほうがいいかも』と思うようになってきたんですね。

 

なぜなら、ちょうどそのタイミングに僕と一緒にロサンゼルスにいた仲間が帰国し『健介、お前やばいぞ。日本の現実をみろよ』と電話があったんですね。

 

つまり、『日本に帰国してきちんと働け』というものです。

 

その時の僕は無職のバンドマン。

高卒でドラム以外のスキルは何もない。

 

25歳という年齢を考えると、何のスキルも無い僕が日本に帰国して就職できるギリギリなのかなっていう思いもありました。

 

それと同時に、ビザがもう少しできれるという時期でもあったんですね。

 

僕は5年間のビザをもらうことができましたが、そのタイミングですでに4年は経っていたように思います。

でも、僕の周りにはいっぱいいたんですね、不法滞在の日本人が。

ほんといっぱいいました。

 

僕も『不法滞在してもいいかな』と考えたときもありました。

偽装結婚も考えたしアメリカの兵士になるということも考えた時期もありました。

※偽装結婚も兵士になるのもすべてグリーンカード(永住権)が目的です。

 

それぐらい『アメリカに残る』という想いがあったんですね。

でも、結局そこまでする勇気がなくやめました。

戦争に行けば絶対最前線に連れていかれ殺されると考えたからですね。

 

このような偶然なのか必然なのかわかりませんが、様々な出来事が重なってプロドラマーになるという気持ちが少しずつ、ほんの少しずつ僕から離れていきました。

 

もちろん、経済的にきついという理由やドラマーとしての限界を感じたという理由もありますけどね。

 

この話をまとめると『せーの』でプロドラマーになるという夢をあきらめたのではなく、色んな小さい出来事が重なった結果、プロドラマーになるという気持ちが少しずつなくなっていったというのが僕の実体験です。

 

逆に言えば、僕の『プロドラマーになりたい』という気持ちがそこまで高くなかったということでもありますね。

当時は、ことある出来事に自分で帰国するという解釈をしていただけかもしれません。

 

本当に『プロドラマーになりたい』って考えていたら、不法滞在してでもバンドやっていたと想います。

もちろん、それが幸せかどうかはわかりませんが。

 

そして、僕は夢をあきらめ帰国するという選択肢を取りました。

 

でも、今まで人生をかけて取り組んでいたことを辞めるというのは、相当な喪失感があります。

だから、帰国してからは人にも会いたくなかったですし、できれば僕の存在を消したかったんですね。

 

それぐらい、自己嫌悪になっていました。

その結果、僕は帰国してからはずっと家でゲームにのめり込むようになっていったんですね。

 

帰国後は仕事もせずに毎日ゲームばっかりしている25歳です。

普通に考えてやばいですよね。

すごい喪失感だったんですね。

 

僕からドラムを取り上げたら何が残るんだろうって。

自分の人生を『薄っぺらい人生だな』とも当時は感じていました。

 

でも、そのときにハマった1つのゲームがきっかけで、ドラム以外の新しいことに挑戦するという気持ちを得ることができたんですけどね。

 

その話はまた今後のブログに書いてみたいと思います。

 

この前の井上尚弥とノニト・ドネア戦で破れたドネア選手がこういうことを言っていましたね。

これは僕の息子たちが学ぶレッスンになる。それはベストを尽くしても力が及ばないことがある。勝つこともある。負けることもある。しかし、どうなろうが優雅でいること。

引用元:yahooニュースより

 

ベストを尽くすしても叶わないこともある。

少なくても僕はこのことをプロドラマーになるという体験を通して知ることができました。

 

もちろん、だからといって投げやりにならずに、これから僕がしたいことに全力で挑戦したいと考えてます。

 

まずは11月16日の坂本英三さんとのライブ。

 

思いっきり楽しみたいと思います。

今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。

 

※ちなみに、日本と同じように『1時間いくら』のスタジオもありますし、ドラムセットが置いてあるライブハウスもあります。