僕は徳島県の鳴門市という場所で宿泊施設である『うずしおゲストハウス』を経営しています。
あの米津玄師さんが紅白で歌を披露した大塚国際美術館から車で5分の位置にある宿泊施設ですね。
そこには多くの宿泊者さんがお越しにいただいています。
もちろん、日本人だけでなく海外のゲストさんも。
当然その中にいは、台湾人のゲストさんも含まれています。
そこで、今回のブログはその台湾人から教えてもらった『台湾はどうして親日なのか』ということについて、シェアしたいと思います。
ぜひ、
- 台湾へ旅行を考えている人
- 台湾人が大好きな人
- 日本と台湾の歴史に興味がある人
は最後まで読んでみてくださいね。
台湾はどうして親日国家なのか?
台湾がどうして親日国家かというと、過去の台湾人ゲストさん達から
- 過去日本が行った台湾での政策の影響が強い
ということを教えていただきました。
では、どんな政策を行ったのかを説明する前に日本と台湾の関係から説明したいと思います。
台湾が親日になったのは日本が統治してから
台湾はもともと中国の一部でした。
(現在も中国の一部という意見もありますが、その話は今回のブログの意図ではないので省きます)
ただ、今から約100年ちょっと前の19世紀末は、中華人民共和国(現在の中国)という国は存在せず、清(しん)という国だったんですね。
学校の社会の授業で勉強して覚えているという人も多いと思いますが、あの日本と戦争をした清という国ですね。
この両国間の戦争を『日清戦争』と呼ぶと書くと、『あ〜聞いたことがある』となる人も多いと思います。
その戦争は1894年7月25日〜1895年4月17日まであり、戦争の結果日本が勝利しました。
そして、下関条約(正式名称は日清講和条約)でいくつか取り決めがあり、その中に台湾を日本に渡すという条約があったんですね。
清国は遼東半島、台湾、澎湖諸島など付属諸島嶼の主権ならびに該地方にある城塁、兵器製造所及び官有物を永遠に日本に割与する。(第二条、第三条)
引用元:wikipedia
この条文にある『割与(かつよ)』とは、『割譲』と同じ意味とのことで意味を調べてみました。
所有物・権利などの一部を分けて与えること。特に、条約などにより自国の領土の一部を他国に分け与えること。 「国土を-する」
引用元:weblio
つまり、1895年以降は日本が台湾を統治することが正式に決定されましたということを示しています。
台湾人いわく『日本が台湾で行った政策が本当に良かった』
1895年以降、台湾の日本の統治が始まりました。
Wikipediaで読む限りは、始めは色々揉めたみたいですが、途中から台湾の統治の方向性が変わり、日本と同じように扱うことが決定したとのこと。
具体的な政策の1つとしては、様々なインフラを整備するなどしたそうです。
例えば、
- 鉄道を作る
- 広い道路を作る
- 上下水道の整備をする
- 大きな病院を建設する
などがあり、その一部は当時の日本より優れたものもあったそうです。
その結果、台湾に住む台湾人の生活はどんどん改善されていき、台湾がどんどん豊かになっていきました。
事実、台湾の人口も、
- 1905年:3,039,751人
- 1920年:3,655,308人
- 1930年:4,592,537人
- 1940年:5,872,084人
と増えていっています。
つまり、日本は台湾を日本の内地として考え、台湾人を日本人と同じように接するようにしたとのことでした。
また、教育や氏名の変更もあったようです。
私達のお父さんは『日本人として教育受けた』ことを誇りに思っていると言っていた
この『日本人として教育を受けた』と書くと、『植民地政策を推奨するのか』という人もいますが、僕が書いているのは、その人から聞いた内容なんですね。
実際、詳しくお話を聞かせていただいた台湾人ゲストさんのお父さんは、『日本人から教育を受けたことを誇りに思う』と言っていたそうです。
また、自分自身のことを『私は日本人である』ともおっしゃっていたのこと。
実際、YouTube上にも多くの日本統治時代は良かったという動画がありますね。
例えば、この動画。
その台湾人ゲストさんのお父さんの名前は日本語の名前を使っていたとのことで、台湾の名字に漢字を一字足して日本名に自ら変えたとのこと。
この名字の変更は決して日本からの強制ではなく、自らすすんで変更したとのことです。
理由は、『日本人名であれば日本に行くと日本人と同じように扱ってくれるから』とのことだったようです。
また、戦争にも自ら進んでお父さんは参加されたようです。
先日ご宿泊いただいた台湾人ゲストさんの目的地の1つに、高知の『前浜掩体群(まえはまえんたいぐん)』があると言っていました。
高知といえば、僕が住んでいる徳島県の隣の県。
でも、恥ずかしい話僕はこの前浜掩体群が何なのか、その台湾人ゲストさんに教えてもらうまで知りませんでした。
この前浜というのは地名のこと。
そして、掩体とは『第2次世界大戦の時に、敵の空襲から飛行機を守るために作った建物』なんですね。
現在では、7基が残っているそうなので、ぜひ高知に行く人は一緒に見にいってみてくださいね。
では、どうして、この日本人でもあまり知らない『前浜掩体群』に彼らは行くと言ったのか。
理由は、彼らのお父さん達が日本人と一緒に戦争で戦った経験からでした。
台湾人は日本人と一緒に戦争で戦った!台湾にも神風特攻隊の基地がある
僕が聞いた話では、『当時の台湾人は日本人と一緒に日本のために戦った』という話です。
例えば、台湾の宜蘭県員山という場所にも掩体があり、そこから神風特攻隊として沖縄の方へ出撃していったようです。
その場所の名前は、員山機堡 (神風特攻隊基地)。
色々教えてくれたその台湾人ゲストさん達は、当然そこにも行っているとのこと。
だから、四国に来たからには、高知の前浜掩体群にぜひとも行ってみたかったそうです。
もちろん、僕は『戦争は絶対にするべきではない』と考えていますが、それでも今の価値観で当時の状況をあーだこーだ語るのは少し違うかなと。
子孫のために戦争で戦っていった人達に恥じない生き方をしたいなと考えています。
ちなみに、台湾の親日を語る上で1人外せない人物がいます。
この人を僕は台湾人に教えてもらったのですが、僕が会った台湾人全員その人を知っています。
でも、ゲストハウスに宿泊してくれる日本人の人にこの人の名前を伝えても多くの人が知りませんでした。
その人の名前は『八田 與一』さんです。
台湾の親日に貢献した八田與一さんの功績
八田與一(はったよいち)さん(現在の漢字では八田与一)の功績はすごく大きいです。
先程書きましたが、僕もこの八田與一さんのことを台湾人に教えてもらうまで知らなかったんですね。
では、具体的にどういうことをした人かいうと、台湾に当時東洋一のダムを建設した人。
その功績から、なんと台湾の教科書にも掲載されている日本人で、先日ご宿泊いただいた台湾人ゲストさんも息子さんを連れて、八田與一さんの銅像を訪れたのとのことでした。
ダムの名前は烏山頭(うさんとう)ダムで予算5400万円。
そのお金は台湾の年間予算の1/3以上だったそうです。
また、施工期間も1920年〜1930年と10年間をかけて完成しました。
そのダムが完成した結果、台湾の農業は大きく発展したのでした。
詳しくはこの動画に解説されているので、ぜひ見てください。
つまり、日本は台湾に対して
- 大規模なインフラを整備し台湾の工業の発展に貢献
- 当時東洋一のダムを建設し台湾の農業の発展に貢献
したのでした。
その結果、台湾は親日国となったのでした。
ですが、その台湾人ゲストさんいわく、『全員が親日家ではない。中には日本や日本人を嫌っている人もいる』と教えていただきました。
その説明をするために、もう1度台湾の歴史を振り返ってみたいと思います。
親日ばかりではない!台湾人の中にも反日の人もいる
台湾人ゲストさんの言葉『台湾人の中でも反日の人がいる』というのを説明する前に、第2次世界大戦前後の台湾の歴史について説明したいと思います。
日本と中国はかつて戦争をしていました。
それは日中戦争(1937年〜1945年)と呼ばれている戦争であり、主に日本と戦争をしていたのは国民革命軍と呼ばれる軍隊で中国国民党が率いていました。
その後、日本は第2次世界大戦に負けてしまい、それに伴って日中戦争も終結しました。
その結果、台湾の日本統治は終わり台湾は中国に返還されたんですね。
ですが、簡単に言うと当時中国は内部で2つに割れていました。
どのように割れていたかというと、
- 蒋介石率いる中国国民党
- 毛沢東率いる中国共産党
です。
日本と主に戦った中国国民党に対抗して毛沢東の中国共産党(現在の中国)との争いだったんですね。
その後、その2つが中国国内で内戦を起こし中国国民党と中国共産党が戦いました。
その結果、中国共産党が勝ち、蒋介石率いる中国国民党は1949年に台湾へ追いやられてしまいました。
つまり、1949年以降の台湾には、
- 日本統治を経験した元々その島にいる台湾人
- 日本と戦争をし、中国を追われた中国国民党の人達
の2種類の台湾人が存在するようになりました。
ここがポイントで、つまり、日本統治を経験した台湾人は親日なのですが、日中戦争で日本と戦っていた人達は、当然日本のことは嫌いで反日なんですね。
だから、その台湾人ゲストさんのお父さん世代の人達には、親日と反日が混在していたそうです。
ちなみに、Sharpを買収した鴻海(ほんはい)の社長のお父さんは、中国から台湾へ追われて来た人とのことで(確か国民党の警察官と言っていたような)、やはり日本にはいい印象を持っていないと台湾人ゲストさんから教えてもらいました。
ただ、過去色んなことがありましたが、それでも今の若者の世代は、基本的に国民党の子孫の人でも親日家の人が増えているようです。
時代は変わり全員ではないが台湾の多くの人は親日家
その台湾人ゲストさんは『過去は過去。僕たちは僕たち』とおっしゃっており、『最近の若者は日本の文化が大好き』とおっしゃってました。
事実、僕のゲストハウスにも台湾人のゲストさんは多くお越しいただき、そのほとんどが日本に好意的な印象を持ってくれていると感じています。
東日本大震災では、義援金を集めてくれたりしたのは記憶に新しいですね。
また、野球でも台湾が負けたあとも日本を応援してくれたのは有名な話。
ですので、おじいさん達の世代の人達は色々あったかもしれませんが、現在の若者の多くの人が日本に好意的な印象を持っているとのことです。
台湾人の人から教えてもらった台湾出身の有名人
せっかくなので、台湾人から教えてもらった台湾出身の有名人を紹介したいと思います。
まずは、この人。
ビビアンスー。
僕はこの人で台湾人を強く認識しましたね。
僕は現在38歳ですが、僕ぐらいの世代で言うと台湾人はビビアンスーではないでしょうか。
最近のビビアンスーの動画を貼っておきますね。
そして、その彼からビビアンスーの部族の話を教えてもらいました。
彼女はタイヤル族の血が流れているとのこと。
そして、彼いわく『タイヤル族の人はキレイな人多いよ。そして強いよ』と。
で、その話から色々発展して、日本統治時代に台湾で起きた抗日事件について教えていただきました。
それは、霧社事件(むしゃじけん)と呼ばれている事件です。
ここでは詳しくは書きませんがwikipediaのリンクを貼っておくので、ご覧ください。
僕は学生時代ほぼ勉強しなかったので、こういう事件すら知りませんでした。
その次はなんと言ってもこの人。
テレサ・テンですね。
すごくいい歌ですね。
僕はドラマーで、元々メタル系の音楽をずっとしていましたが、こういう歌もののバックで演奏したいと最近は強く思いますね。
ほんといい曲。
あと、この曲を歌っている人も台湾人だったんですね。
歌っている人の名前を知りませんでしたが、教えていただきました。
欧陽菲菲(オーヤンフィーフィー)。
この曲も有名な曲ですね。
すごく良い歌。
あとは、ジュディ・オング。
その台湾人の人が言うには、『この4人は日本ですごく知名度があるよ』とのことでした。
また、その台湾人の彼から『台湾の地元料理で美味しいのがあるので食べてね』って教えてもらった食べ物があるので、紹介しておきますね。
台湾人から教えてもらった台湾人おすすめの地元料理:滷肉飯(ルーローハン)
滷肉飯(ルーローハン)はとても美味しい地元料理とのこと。
漢字で魯肉飯とも書きますが、『滷肉飯の方が正しいよ』と教えてもらったので、こちらの字を書いてみました。
文章で書いてもわかりにくいので、YouTubeの動画を貼っておきますね。
この2人が食べている動画美味しそうですよね。
また台湾に行ったら食べてみようと思います。
ちなみに、その彼に『材料揃えたら僕でも作れるんじゃない?』と聞いたら『日本の醤油と台湾の醤油は全然違う。味同じじゃない』と教えてくれました。
ネットを確認すると滷肉飯の料理方法を解説しているので、ぜひ台湾の醤油を手に入れて挑戦してみてくださいね。
最後に
今回は過去多くの台湾人ゲストさんと接してきた経験から、台湾人になぜ親日家が多いのか聞いた内容を書いてみました。
一部勉強不足で歴史の認識が間違っているところがあるかもしれませんが、その時は教えてください。
訂正致します。
ただ、台湾人ゲストさんの会話に関しては、間違いなく僕が話を直接聞いた内容です。(僕は英語が話せます。)
一緒によく話をしたり、食事に一緒に行ったり、お酒を飲んだり、交流を通して様々な情報を教えてもらっています。
僕も過去台湾に家族で旅行に行きましたが、いい国ですね。
英語はあまり通じませんでしたが、日本語が通じたり漢字が通じたり。
楽しい思い出となりました。
これからも多くの台湾人がお越しになると思いますが、日本人としての誇りを持って接客したいと思います。
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。
ちなみに、『何で日本に統治してもらったのに韓国があそこまで反日なのかは理解できない』ともおっしゃっていたのが、印象的だったので最後に付け加えておきますね。
※写真に写っている台湾人ゲストさん達の発言ではないので念の為に書いておきます。