こんにちは。
息子とサッカーの練習を始めて1週間以上身体を動かし続け、体力が少しずつ戻っていきていると実感している木内(きのうち)です。
継続は力なり!ですね。
さて、サッカーの練習をしていて感じたことは『出遅れ』を取り戻すには、人の2倍、3倍の正しい練習が必要だということです。
他の人が遊んでいる間や寝ている間とかですね。
ただ、3倍となるとなかなか現実的ではないのかなと思っていますが、この3倍という言葉を聞くと思い出すのが、柔道史上最強と言われている『木村政彦』さんです。
別名『鬼の木村』。
1番始めの写真はWikipediaにある木村政彦さんの写真なのですが、この写真を撮影した当時で18歳。
筋肉の付き方が違いますよね。
いや、違うというレベルではなく異常なほど発達しています。
すさまじい努力の結果ですね。
ざっくり柔道家としての木村政彦さんの実績を紹介をすると、
- 全日本選手権13年連続保持
- 天覧試合優勝
- 15年間不敗
という輝かしい結果を残しています。
そして、この木村政彦さんを世界の木村にしたのは何といってもこの試合でしょう。
400戦無敗の男と言われているヒクソン・グレイシーのお父さんさんのエリオ・グレイシーとの一戦です。
※無敗かどうかのツッコミはやめてね。
エリオ・グレイシーとは、あのグレイシー柔術の創始者です。
その動画がこちらです。
※この映像は2ラウンドのもの。
試合は1951年10月23日に行われました。
ここからは一部木村政彦について書かれた本である『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』をもとに説明していきたいと思います。
資料によって観客数はまちまちだが、その数は二万数千人から四万数千人だったようだ。
引用元:木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか
2人の対戦を見ようとかなり多くの人が集まったことがわかっていただけると思います。
ちなみに、東京ドームのキャパシティは55000人とも言われており、その半分〜80%ほどは埋まっていたことになるかなと。
また、観客も一般人だけでなくブラジルの副大統領も試合を観戦しているとのことで、その注目度の高さがわかっていただけると思います。
入場券の売り上げは三十三万九千クルゼイロにも上り、格闘技興行の最高記録を更新したと当時の新聞にある
引用元:木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか
さらに、興行的にも大成功のだったのがこの文章からもわかります。
前座の試合がすすみ、いよいよ二人の対戦が始まろうとしているときに『主審の変更』をエリオ・グレイシーが言っているとのことを木村政彦さんは告げられました。
そして、主審を変えないのであれば『試合を放棄する』とも。
その回答に木村政彦さんは、
「審判なんて誰でもいい」と通訳者に伝える
引用元:木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか
と答えたとありました。
試合直前の申し出にも関わらず変更を受け入れるなんて、どれだけ木村政彦さんが心に余裕を持っていたのかがわかりますね。
いよいよ試合が開始されます。
ルールは、以下の通りです。
十分3R。ラウンド間の休憩は二分。投技や抑え込み三十秒による一本はなく、勝敗はタップ(参った)か絞め落とすことによってのみ決する加藤戦と同じものだ。
引用元:木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか
ちなみに、ここに名前が出ている加藤とは誰かと言うと、木村政彦の弟子で先日エリオ・グレイシーと勝負をして残念ながら負けてしまった人のことです。
早速第一ラウンドが開始されます。
ゴングが鳴る。先に両襟を握ったエリオは、大外刈り、小内刈りで盛んに私を攻めたてる。しかし私は微動だにしない。今度はこっちの番だ。大内刈り、払い腰、内股、一本背負い投げ。掛けるたびにエリオは大きく吹っとぶ》
引用元:木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか
文章から読み解くと圧倒的な実力差があったことがわかります。
実際エリオ・グレイシー自身も後にこのように語っています。
「お互いの間合いが近づいたとたん振り回されていた。私がつかむ、組むまでもなかった。木村が投げを放とうとする瞬間に全身の力を抜いて、ほんの少し体の位置をずらすことで木村がバランスを崩してくれたことで完璧な投げを打たれなかったのが私の微かな成果だった」と一方的にオモチャにされたことを明かしている。
引用元:木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか
さらに、試合中にはその圧倒的な実力差から木村政彦さんはその攻撃の強さからエリオ・グレイシーに気遣うこともあったとのことです。
エリオの頭をヘッドロックのようにして引っ張り上げ、頸椎にプレッシャーをかけた。強豪大学などの稽古でよくみる痛め技の一つだ。全盛時代にベンチプレスで二五〇キロを挙げた木村の怪力で締め付けられ、エリオの耳から大量の血が噴きだした。「アー・ユー・OK?」
木村が両腕の力を抜いてエリオに聞いた。エリオは苦しみにもがきながら「もちろんOKだ」と小さく答えた。木村が再び強く締め付ける。その剛力に息が詰まりながらも、しかしエリオはタップ(参った)しない。
引用元:木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか
ベンチプレス250kgは強すぎますね。
僕は以前200kgちょっとを上げている人を目の前で見たことがあるのですが、それよりも50kgも重いとは・・・。
YouTubeで250kgを上げている人の動画を見つけたのでシェアしておきます。
250kgに挑戦しているのは3:35〜ぐらいからです。
話を木村政彦さんに戻しますね。
木村はしかたなく袈裟固めを外し、エリオの頭側に回って横三角で返し、腕を縛ってそのまま強烈な横三角絞めに入った。
〜中略〜
(エリオは)参っただけはしたくないと思っているうちに、落ちてしまう。エリオが落ちたことに気づかない木村は、絞めが効いていないと判断し、しばらくしてまたマウントポジションに戻した。そのときの動きでエリオに運良く活が入り、蘇生した。エリオは後に「あのままいけば私は死んでいたかもしれない」と述懐している。
引用元:木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか
エリオのタップしてまいったしないというのは凄まじい闘争心ですね。
もちろん、死んでしまっては意味がないですがそれだけこの試合にかける想いが強かったと読み解くことができますね。
そして、ここで終始木村政彦さんが優勢にすすめていた1ラウンドが終了。
その終了間際に木村政彦さんはエリオ・グレイシーにこのように伝えたと書かれています。
「エリオ、おまえは本当に凄い」
引用元:木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか
終始オモチャにされ遊ばれていたとはいえ、木村政彦さんの攻撃に耐え続けたエリオ・グレイシーを讃えたとのこと。
そして、休憩をはさんだのち2Rが開始されました。
先程の動画をもう1度貼りますね。
2ラウンド目の動画です。
この動画の0:12〜が木村政彦さんの必殺技『大外刈り』です。
この技で多くの柔道家を失神させてきたとのこと。
でも、エリオの想像以上の頑張りに『使わない』と公言していた大外刈りを使ったとのことでした。
そして、この大外刈りが柔道着を着て戦っている動画はこのエリオ・グレイシーとの一戦しかないとのことです。
ただ、これだけではその鬼の木村と呼ばれるすごさがわかりにくいかもしれません。
そこで、以下の文章を引用したいと思います。
凄まじい大外刈りだ。木村は自伝で「脳震盪で失神を狙った」と書く。だが、エリオは人形のように頭から叩き付けられても、下が柔らかいマットだったため脳震盪を起こさなかった。
〜中略〜
鬼の大外刈りの迫力は、言い伝えられる以上のものだ。昭和十六年の第十二回明治神宮大会以降まともな練習はしておらず、さらに昭和十七年一月には徴兵されて終戦まで柔道衣すら着ていない。現役引退からすでに十年も経っていてこの動きである。全盛時代はいったいどんな柔道をしていたのか。
引用元:木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか
つまり、この大外刈りは全盛期の大外刈りではなく、現役を引退し練習をほとんどしていない時の大外刈り。
それでも、当時ブラジル最強と言われているエリオ・グレイシーを簡単に投げてしまうとは。
10年前の大外刈りはどんな大外刈りだったのか。
想像するだけで怖いですね・・・。
そして、決着を迎えます。
木村政彦さんに腕を決められて骨を折られてもタップしないエリオ。
見かねたセコンドの兄カルロス・グレイシーが試合場内に走り入り、エリオの代わりに木村の背中を叩いてタップした(木村の自伝をはじめタオルが投げ込まれたTKOだとする資料が多いがこれは間違っている)。
引用元:木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか
つまり、最終的にはタップしないエリオの代わりに第三者によって試合は止められたのですが、その引き金となった技が『腕がらみ』という技です。
別名アームロック。
ですが、この試合以降もう1つこの技には別の名前が付けられるようになりました。
それが『キムラロック』です。
※エリオ・グレイシーがその強さを讃えて名付けたとも言われています。
この技は現在でも『Kimura lock』と呼ばれておりその影響力の大きさを感じることができます。
実際、YouTubeで確認するとこのような結果となりました。
試合後エリオは地元新聞紙にこのように語っています。
「はっきりいって私の体はもうボロボロだった。気持ちだけでもちこたえていた。奇跡が起きて技から逃れられればいいと思っていた。万が一、私があの技から逃れられたとしても次の技で仕留められていただろう。すべては第1Rから偉大なる王者の意のままに進められていたんだ」
引用元:木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか
そして、木村政彦さんもこのように新聞に語っています。
「エリオを寝技で討ち取れる柔道家は日本にもそうザラにはいない」そして自伝で「何という闘魂の持ち主だろう。腕が折れ、骨が砕けても闘う。おそらくエリオは、死ぬまで試合を続けようとしたことだろう。こんな闘魂の持ち主が日本人の柔道家にいるだろうか。エリオの闘魂は日本人の鏡だ、と私は思った」と書いている。
引用元:木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか
試合後お互いがお互いの検討を称え合う。
試合は一方的でしたが、その心意気は素晴らしいものだったんだなと感じました。
残念んながら知名度としてはあまり知られていない木村政彦さん。
少しでも興味が出たらこちらの動画をご覧ください。
どれだけすごい練習をしていた人なのかわかると思います。
もちろん、力道山との試合も。
さらに詳しく木村政彦さんのことについて知りたい人は、僕も持っているこの本、『
』がおすすめです。
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下巻
Kindleはこちらです。
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ちなみに、僕はkindleでこの本を持っています。
今回紹介したのはあくまでもごく一部であり、
- 木村政彦の生い立ち
- 練習内容
- 戦争体験
- 力道山のこと
- 大山倍達のこと
- 葛藤
など深く知ることができます。
ぜひ、読んでみてくださいね。
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色々書いてきましたが、木村政彦さんの強さは最強と言っていいほど強かったと思います。
この機会に少しでも多くの人に木村政彦さんのことを知ってもらえればと幸いです。
今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。